
 
 あの左の白い山を見てくれ。なんという山だ?

どれのことだ?
 
 あの一番白いところだ


北岳だ
 
 北岳はちょっとしか顔を出していないが、白く輝いている

あれは間ノ岳だな。北岳じゃない。北岳はその右に隠れてると思う。北岳ならもっと白く輝いてるよ
 
 控えめだが威厳がある。すばらしい風景だ。あそこには原始林が広がってるのか?

自分にあそこに行けと言うんだな?それでこんなところに呼び出したんだ。こんな眺めのいいカフェに
 
 まあね

悪いが、おれは無理だよ
 
 この店は眺めがいい。ここにいれば、いろんなことを俯瞰できる気がする。なぜ無理なんだ?

ずっと山に行ってないしその気もないからだ。自分の中に登りたいって気持ちが出てこないと山には入れない
 
 そういうきれいごとにはときどき出会うよ。あそこに登ったことは?

2回あるよ
 
 いつ?

24か5だ。もう1回は28
 
 時期は?

2月
 
 今も2月だ

ああ
 
 難しくないんだろ?

難しいよ。危険だし
 
 でもあそこより危険なことをたくさんしてきたんだろ?

そうでもないよ。なにを検索してる?
 
 北岳、登山、冬、で検索してる。工場長が一人で登ってるぞ。簡単そうだ

それは違うよ。冬の北岳に一人で登るのは危険だ。正月ならともかく、そのあとの時期はほとんど人は入らない
 
 ほんとかい?

それで記事を書けって言うんだろ?
 
 それは違うよ。おれたちがやってることは、棚作りだ。日本の木を使ってる。だから日本の山を知ってることが大切だ。そこらへんの山を知ることももちろん大事だが、ああいう山を知っていることはクオリティーにかかわってくる。控え目なのに力がある。それはおれたちがまさに欲してることだ。高いクオリティーは感染する

おれたちって、棚を作ってるのはおれだろ。山を知る方法はほかにいくらでもある。なんでこんな寒い季節にあんなところまで行く?クオリティーにかかわるが命にもかかわる
 
 もっともだ。だけど理屈じゃ説明できないときもある。恋がそうだ。この宇宙に彼女1人しかいないと感じることがある。今おれたちが見てるこの風景もそういう類いのものじゃないか?

そういうのはあんたの膀胱にためといてくれよ
 
 ためとくよ。でもずっとはためておけないよ。もう一度聞くが、あそこには原始林が広がっていたか?

覚えてないな。なぜ原始林というワードにこだわる?
 
 覚えてない?

ああ。覚えてないよ
 
 覚えてない以前に、原始林か人工林か見分けることができなかったんじゃないかな?険しい山を登ることばかりで、わきに生えてる樹木に見向きもしなかった

その通り
 
 それを見ようたってどれが原始林か分からなかった

だが今はその目を持ってる。だから山に行ってこい。そういう流れだな。でもおれは原始林に今も興味はないよ。ちゃんと見分ける目だって持ってない
 
 もし、あんたの言うそのなんとかってやつができあがったら、おれに一言言ってくれ。カメラを渡す。記事がもらえれば、カメラが壊れても文句は言わない

カメラなら俺も持ってる

あんたはカメラを賭けて、おれは自分の命を賭ける
 
 そう言うときれいに収まる。だが、比較表現には常々慎重であるべきだ。思考を停止させる。そこにリズムが合わさるときはなおさらだ。さんは今、比喩表現とリズムの両方を使った。罪深い男だ

なんの話だ?準備にも時間がかかる。道具も一式そろえないといけない。アイゼンにしろ、ピッケルにしろ、おれが持ってるのは15年前の代物だ
 
 moneyなら出すよ

moneyね。だが、金で買えないものもある。体力だ。体力を作るのには長い時間がかかる。その時間を棚作りに充てた方がずっと懸命だと思うね。まだ身につけないといけない技術はいくらでもある
 
 世の中は一見そう見える。でも、そうはできてないんだよ。その先にたいした丘は待ってない。おれたちが今直面してる問題はシンプルさだけだ

シンプルさ?
 
 時代は常にシンプルな方向へと向かう。技術は複雑になるが、コンセプトはシンプルになってく。車もそうだし、スマホもそうだ。棚もそうだ。技術は継続すれば勝手に身についていくから心配ない。それが付け足す作業である以上、高低差で進んでいける。でも、コンセプトをシンプルにするのは付け足す作業じゃない。だから高低差では進んでいけない。そぎ落とす作業だからだ。工房にいくら居てもだめだ。たぶん、どんどん遠ざかっていく。これはおれが他の畑で知ったことだ。答えはシンプルですぐそばにある

・・・
 
 なら、話を青空に向けよう。なぜ空が青いかを3歳児に説明しなきゃいけないとする。どうする?

・・・
 
 ほんとうの意味でそれを説明するには、広い知識が必要になる。そこには太陽光に含まれるスペクトルのこと、水蒸気の乱反射のこと、眼球に配置されたロドプシンのこと。そんな八ヶ岳の裾野のように広い知識を持ちながらそれを微塵も感じさせずに、子供にひと言で説明しなきゃいけない。自分の良心に背くことなく、正確度を犠牲にせずに。そんな作業は尋常じゃない。棚作りも同じだ。とても難しい作業だ。そしてその難しい作業を進めるためには、ああいう白い山に登るのが効く。ハタチそこそこであんたはあそこに登った。でも今、30代晩期の今、棚作りを始めた今こそ登るのがいいはずだ

黙ってれば、あんたはどんどんキザになる。ハーランポッターみたいだ
 
 光栄だよ。ポッターの前に、おれはあんたのアドバイザーだ。あんたがその役を与えた。おれは自分の義務を果たしてるんだよ

おれの命も少しは大事にしてほしいね
 
 ではまた会おう

あいかわらず急だな。久しぶりに会ったから、あんたともっと話したいよ。北岳の話なんかじゃなく
 
 実のある話をしたつもりだ。あいにくもう出ないといけない

どこへ?
 
 ここから2,000km離れた場所だ

相変わらずですね。お気を付けて
 
             
             
            



